【 コラム 】ボクが考えるアウトプットの本質
もしかすると、ボクはアウトプットというものについて、重大な思い違いをしていたのかもしれない。
そう思いはじめたのは、ごく最近のこと。
以前は、こう考えていた。
少し汚い例えになるが、モノをたくさん食べないとウンチがでないように、インプットをしないと、アウトプットはできない、と。
高校生だか大学生のころに読んだ立花隆の本のなかでも、インプット100に対してアウトプット1だ、だから1冊の本を書こうと思ったら最低100冊は読まないといけないみたいなことが書かれていたように記憶している。
その他、おおくのひとが、アウトプットするためには、インプットをする必要があると説いている。純朴なボクは、「そういうものなのか」と思い、それにおとなしくしたがっていた。
ボクは、もともとは小説家、というか、一般的にクリエーターとよばれるものになろうという希望をもっていた。それは、小説でも音楽でも建築でもデザインでも、とにかく、じぶんにしっくりとくるジャンルであれば、なんでもよいと考えていたように思う。
たしかにインプットは重要だろう。とくに、修行期間のような時間のときには。
小説家であれば、数多くの小説を読む必要があるだろうし、音楽家であれば、数多(あまた)の音楽に触れなければいけない。建築家になろうとするものは、実際にたくさんの建築をみなくてはいけないし、デザイナーだって大量の優れたデザインに触れる必要がある。
しかし、このような膨大なインプットの果てに、アウトプットが自然となされるのかといえば、いまのボクは違う風にとらえている。
例えてみる。
ここに中の空気を抜いて真空にしたガラス瓶があるとする。ドリルか何かでガラス瓶に穴をあけていくと、ある瞬間にものすごい勢いで空気が中に吸い込まれていくだろう。
この強力に吸い込まれていく力が、アウトプットのようなものなのではないだろうか。
頭をからっぽにするために、何もせずに、朝日や夕焼けを眺める。身体をリフレッシュするために、適度に身体を動かす。
心身がクリアになり、真空になったガラス瓶のようになる。
その状態の精神と身体は、新たなものを吸収しようとする力が強くなっている状態である。何気ない景色が、意識せずとも目にはいってくる。街をとんでいる鳥の鳴き声が、いくつかの種類のちがう鳥によるものであることがわかりはじめる。他人の笑顔が、喜びによるものなのか、困惑によるものなのか、高い精度で判別できるようになる。
言い方を変えると、感度が高くなる。その高くなった感度は、自分にとって必要なものや自分が響くものをキャッチする。感度の高いセンサーは、微妙な違いに気がつく。
偉大な芸術家は、じぶんの家の窓の外にひろがる景色を描いて、それを傑作としてしまう。それは、なんの変哲もない、同じ街に生きる何万、何十万という人間がふだんから目にしている景色である。違うのは、感受性の感度である。偉大な芸術家は、何気ない景色から、その偉大なる感受性によって深淵なものを引き出すことができるのだ。
こうやって感度の高いセンサーによってキャッチしたものごとを、置きかえる。
言葉に、音に。建築に、デザインに。
これが、アウトプットをする、ということなのではないか。
だから、いたずらにインプットをふやすのではなく、あるタイミングでは、情報をいっさい入れないようにし、心身をからっぽにするようつとめる必要があるのではないか。
これが多くのひとにあてはまることなのかどうか、それはわからない。しかし、ボクと同じように、何かをアウトプットしたいと願っていて、それがなかなか思うように形にすることができない人にとって、何かかしら参考になるかもしれない。