SHIMANAKA Takahiko

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【 エッセイ 】ずっと後になってから気がついたこと

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ベランダに干している洗濯物が、東からの風によってなびいている。

 

それを眺めているボクは、いましがた昼食をとったばかりであり、冷たい麦茶を飲んでいる。コースターというものを使わないので、コップの底面付近のテーブルは水で濡れている。

 

ずっと遠くのほうに山並みがみえるが、今日は雲がかかってしまっており、白いもやのなかにその稜線がぼんやりとうかんでいる。

 

ここ数日は細かい字を目で追っていたので、いまはそういうものに触れたくない。

 

スマートフォンを手にとり、自分で録音した音を部屋のなかに流す。

 

街の喧騒。鳥の声。水の流れる音。風で木々の葉がこすれあう音。高音域のかすれた電子音。

 

目を閉じ、椅子にもたれかかりながら、何も考えないようにする。

 

遠い過去の記憶が、どこからともなく意識に浮かんでくる。

 

あれは、おそらくであるが、小学五年生の夏休みのことだ。担任が割り当てた当番にしたがって、ボクは夏休み中であるにもかかわらず、学校に登校していた。クラスで管理している植物が枯れないように、水やりをするためだ。

 

通っていた小学校は、校門がある側の敷地とそこに面している道路との間に金属製のフェンスを巡らせており、その内側には等間隔に木が植えられていた。

 

木々の樹皮は白く、ところどころ黒かった。横ではなく、縦に伸びていくタイプの木で、その高さは電柱くらいだっと思う。

 

ボクは、木々の揺れる葉によって完全には遮られることがない太陽の光を浴びながら、葉同士がこすれあう音を聞いていた。

 

心が落ちつき、幸福感といっていい感情で満たされはじめた。

 

今から振りかえってみると、そのようなことで心身がリラックスするということは、ボクは慢性的な緊張状態にあったのだ。学校のなかで。そして、家庭のなかで。

 

ボクを取り巻いていた、両親や学校の先生といった人たちは、精一杯やってくれたのだと思う。ただ、与えてくれたものが、ボクには負の方向に作用することがおおかったということだ。

 

じぶんで、一から言葉の意味を考えなくてはいけなかった。

 

言葉は、価値観や背景というもののなかで発せられる。価値観や背景が異なれば、その言葉は異なる意味とニュアンスをもつ。そして、異なる価値観と背景をもっていたボクは、ボクを取り巻いている人間からの言葉を、うまく受け取ることができず、受け取れたとしても、それは歪んだ形でのものだった。

 

そのことに気がついたのは、ずっと、ずっと後になってからのことである。

 

小学生くらいの子どもが、そのようなことに気がつかないことを、だれが責めることができるだろうか。

【 コラム 】村上春樹はどのように小説を書いているのか―『職業としての小説家』をよみながら

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もともと小説家になろうと考えていた。

 

小説を書きたかったというよりも、小説家の仕事や生活の仕方に憧れていたのだ。

 

場所に拘束されず、自由な時間に仕事をすることができる。自分の納得のいくまで文章の完成度をあげ、なにより手をつかった仕事をできる。

 

そういったことに魅力を感じていたのだ。

 

高校生になったころから、小説家になるためになにをすればよいのか、自分なりに考え、実践していた。

 

まず、何よりも本を読まなくてはいけないだろうと思い、肌にあうものを読んでいた。家のわりと近所に古本屋があり、1冊100円の本をおおいときには10冊くらいまとめて買って、家で読んでいた。

 

吉本ばななの『哀しい予感』、中島らもの『今夜、すべてのバーで』、安部公房の『砂の女』、阿佐田哲也の『麻雀放浪記』。

 

名作や古典とよばれているものも読んでみたかったのだが、いかんせん歯が立たなかった。

 

大学1年生のとき、文学の講義を受講したのきっかけにドストエフスキーの『悪霊』と『罪と罰』を読んだが、内容はほとんどおぼえていない。読んだというよりも、字面を追っただけ、というのが正しい。バイトの休憩中に立ち寄った書店で高橋源一郎の『一億三千万人のための小説教室』という本をみつけ、買って読んだこともあった。

 

小説家になるためには、まず、小説を書きあげなくてはいけない。自分なりにいろいろと調べ、実践をしてみたのだが、小説が書きあがる気配はまったくなかった。

 

大学を卒業し、一年の就職浪人を経て、就職した。

 

小説家のように仕事をしたいという気持ちは、いつもどこかにあった。もちろん、これはボクが理想として考えている小説家の仕事の仕方であって、現実に小説家として仕事をするということがどういうことなのか、ほとんど知らなかった。

 

正職員として仕事をし続け、自分の理想を追求するという生活に疲弊していた。年齢も三十をこえた。

 

そんなころ、村上春樹の『職業としての小説家』という本に出会った。

 

村上春樹の本は、だいたいそうだが、とても読みやすい。これは、内容が分かりやすいという意味ではなく(もちろん分かりやすい部分もたくさんあるのだが)、文章のリズムが黙読するのにあっている、ということである。

 

この本のなかでもっとも印象的なのは、芝生に寝っ転がってビールを飲みながら野球の試合を観ていたとき、バッターがヒットを打ち、まばらな拍手が球場に響わたったそのとき、「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と、何の脈絡もなく感じたことが書かれてあるくだりである。

 

「天啓」を受けたといってもよい村上は、原稿用紙と万年筆を買って帰り、夜中に台所のテーブルで小説を書きつづけ、群像新人文学賞を受賞して、小説家としてデビューした。

 

さて、小説を書こうと思ったら、いったい何を書けばよいのか。

 

村上はいう。

 

「頭に思いうかんだことをそのまま書けばよい」

 

ある人は言うだろう。

 

「なにも思い浮かびません」

 

そういう人は、別に小説を書かなくてもよいと思うのだが、それでも自己表現をしたいという気持ちが自らのなかに強くあるのだろうと思う。

 

なにも思い浮かばないというのは、実は勘違いだ。言い換えると、自分のなかにあるイメージを、とるに足らないものであると勝手に判断して切り捨てているのだ。

 

自分自身による自己検閲、と言えばいいだろうか。

 

ボクはそうだった。

 

素材で勝負しようとするから、そういう発想に陥りがちになる。料理で例えれば、高級な食材でなければ美味しい料理をつくることはできないと言っているようなものだ。

 

素材がありふれていても、味付けや調理方法を工夫することで、美味しい料理をつくることは可能だ。

 

さいころの記憶を呼び起こしてみよう。

 

階段の隅にたまった埃。物置部屋の匂い。通っていた塾の、練り消しゴムのような匂い。ある晴れた日に、自宅の二階の窓から見えた、ずっと遠くに浮かんでいる飛行船。

 

小説の素(もと)になるのは、こういった自分のなかに蓄積されている(あるいは蓄積しようとつとめた)記憶の断片である。すなわち、イメージのかけらだ。

 

これらをパーツのように組み合わせて小説を書いていく。

 

いったい、どうやって?

 

村上が参考にしたのは、ジャズだ。ジャズという音楽を成立させているさまざまな要素を参考に、イメージの断片をつなぎあわせ、小説を構築していく。

 

思いつくままに、どんどん書き進めていくそうだが、そうなると当然、つじつまの合わないところがいくらもでてくる。登場人物の性格ががらりと変わってしまうし、時系列もめちゃくちゃであるらしい。

 

第一稿を書きあげ、しばしの休息をとった村上は書き直しにはいる。つじつまの合わない箇所を、一つひとつ修正していくのだ。彼は、この書き直しを幾度も繰り返していく。

 

文章の調子を繰り返し確認し、句読点の位置を何度も確かめる。

 

村上春樹の書く文章が読みやすい理由は、このあたりの作業に求めることができるだろう。自分の書く文章が読みにくくて悩んでいるひとは、同じように(ときには文章を声にだして)推敲を繰り返すといいと思う。

 

小説を構築するために、イメージをつなぎ合わせるときに参考にするロジック、文法は、必ずしもジャズである必要はないだろう。

 

自分が読んだことがある小説や、好きでよく観ている映画、料理の作り方なんかも参考になると思う。自分がみた夢なんかもいい。夢は、素材としてのイメージといい、展開していくロジックといい、とてもいいんじゃないかと感じる。

 

ちなみに、ここまで偉そうにいろいろと書いてきたが、ボク自身は小説を書きあげたことはない。だから、なんでお前はそんなに自信をもって断言できるんだと言われると返す言葉はない。

 

この先、もし小説を書きたいという気持ちが自分のなかに自然と湧き上がってきたら、いま言ってきたような考えに基づいて書くだろうと思う。

 

さしあたっては、ブログを書くことで満足してしまっているのだが。

 

イメージを蓄積しようと思ったら、ものごとを仔細に観察する必要がある。「違い」に敏感にならなければいけないのだ。きょう、頭上に晴れ渡って広がる空は、昨日みあげた空と一緒ではない。毎日をいっしょに過ごしている家族やパートナーも少しずつ変化しているだろう。

 

ものごとに敏感になろうと思ったら、感性を磨く必要がある。そのために、ときには知識も役に立つ。知っていれば「違い」に気づくことあるのだ。

 

さいごにひとつだけ。

 

村上春樹は、年若いときに英語で書かれた小説をたくさん読んだそうだ。いまも英語で書かれた小説の翻訳を精力的におこなっている。

 

夏目漱石芥川龍之介は漢文に親しんでいたそうだし、ポール・オースターはたしかフランス語に長けていた記憶がある。

 

文章を生業にしている人たちは、おしなべて、母国語以外の言語に習熟している傾向がある。

 

ボクはこのことについて昔から考えをめぐらしているのだが、一言でいえば、言葉に敏感になるということなのだと思う。

 

外国語(現代を生きる人間にとって、漢文は外国語みたいなものだ)に親しむことによって、自分がつかっている母国語を相対化できる。

 

相対化とは、すなわち、外から眺めることであってそれによって長所や欠点といった特徴がよく分かるようになる。

 

この考えにしたがって、自分なりに英語を勉強し、漢文に親しんできたつもりだ。

 

その成果がでているかどうかについては、ボクの文章を読んだひとがそれぞれに判断してみてほしい。

【 コラム 】ボクが考えるアウトプットの本質

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もしかすると、ボクはアウトプットというものについて、重大な思い違いをしていたのかもしれない。

 

そう思いはじめたのは、ごく最近のこと。

 

以前は、こう考えていた。

 

少し汚い例えになるが、モノをたくさん食べないとウンチがでないように、インプットをしないと、アウトプットはできない、と。

 

高校生だか大学生のころに読んだ立花隆の本のなかでも、インプット100に対してアウトプット1だ、だから1冊の本を書こうと思ったら最低100冊は読まないといけないみたいなことが書かれていたように記憶している。

 

その他、おおくのひとが、アウトプットするためには、インプットをする必要があると説いている。純朴なボクは、「そういうものなのか」と思い、それにおとなしくしたがっていた。

 

ボクは、もともとは小説家、というか、一般的にクリエーターとよばれるものになろうという希望をもっていた。それは、小説でも音楽でも建築でもデザインでも、とにかく、じぶんにしっくりとくるジャンルであれば、なんでもよいと考えていたように思う。

 

たしかにインプットは重要だろう。とくに、修行期間のような時間のときには。

 

小説家であれば、数多くの小説を読む必要があるだろうし、音楽家であれば、数多(あまた)の音楽に触れなければいけない。建築家になろうとするものは、実際にたくさんの建築をみなくてはいけないし、デザイナーだって大量の優れたデザインに触れる必要がある。

 

しかし、このような膨大なインプットの果てに、アウトプットが自然となされるのかといえば、いまのボクは違う風にとらえている。

 

例えてみる。

 

ここに中の空気を抜いて真空にしたガラス瓶があるとする。ドリルか何かでガラス瓶に穴をあけていくと、ある瞬間にものすごい勢いで空気が中に吸い込まれていくだろう。

 

この強力に吸い込まれていく力が、アウトプットのようなものなのではないだろうか。

 

頭をからっぽにするために、何もせずに、朝日や夕焼けを眺める。身体をリフレッシュするために、適度に身体を動かす。

 

心身がクリアになり、真空になったガラス瓶のようになる。

 

その状態の精神と身体は、新たなものを吸収しようとする力が強くなっている状態である。何気ない景色が、意識せずとも目にはいってくる。街をとんでいる鳥の鳴き声が、いくつかの種類のちがう鳥によるものであることがわかりはじめる。他人の笑顔が、喜びによるものなのか、困惑によるものなのか、高い精度で判別できるようになる。

 

言い方を変えると、感度が高くなる。その高くなった感度は、自分にとって必要なものや自分が響くものをキャッチする。感度の高いセンサーは、微妙な違いに気がつく。

 

偉大な芸術家は、じぶんの家の窓の外にひろがる景色を描いて、それを傑作としてしまう。それは、なんの変哲もない、同じ街に生きる何万、何十万という人間がふだんから目にしている景色である。違うのは、感受性の感度である。偉大な芸術家は、何気ない景色から、その偉大なる感受性によって深淵なものを引き出すことができるのだ。

 

こうやって感度の高いセンサーによってキャッチしたものごとを、置きかえる。

 

言葉に、音に。建築に、デザインに。

 

これが、アウトプットをする、ということなのではないか。

 

だから、いたずらにインプットをふやすのではなく、あるタイミングでは、情報をいっさい入れないようにし、心身をからっぽにするようつとめる必要があるのではないか。

 

これが多くのひとにあてはまることなのかどうか、それはわからない。しかし、ボクと同じように、何かをアウトプットしたいと願っていて、それがなかなか思うように形にすることができない人にとって、何かかしら参考になるかもしれない。

ブログ、はじめました

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このたび、iPhone SE(第2世代)を購入し、それにあわせて通信量無制限のプランに変更をした。

 

それを記念して、というわけでもないのだが、じぶんのかいた絵や文章、つくった音楽なんかを共有できればと思い、ブログをはじめる(再開する)ことにした。

 

 いろいろと考えた末に、ブログ名にじぶんの名前を冠することに。

 

映画監督やデザイナー、建築家や音楽家はじぶんの名前で仕事をしている。それにならおうというわけだ。


ブログに関しては、ランニングや英語の勉強と同様、はじめてはやめ、はじめてはやめを繰りかえしてきた。

 

このブログは五、六年ほどまえにつくって、ほったらかしにしてあったものを再利用したもの。

 

 なんでもそうだと思うが、何かを長続きさせるポイントは、やり方をシンプルにすることだ。あまり、凝りすぎないこと。

 

さいきんはウォーキングをするのが日課になっているが、ウォーキングのいいところはトレーニングウェア&シューズに変える必要がないところ。デニムとTシャツで、そのままはじめることができる。

 

勉強とか仕事なんかもそうで、やり方をなるべくシンプルにし、面倒に感じる要素があったら、なくすか、簡易化する工夫をするといい。

 

このブログも、あまり無理をすることなく、書きたいことや共有したいことがでてきたら、そのときに更新しようと思っている。

 

目次を整理したり、書いた内容を整理すると読みやすくはなると思うのだが、手間なので、そういうことはしない予定。内容の重複もいとわない。

 

しばらくはボクのことを直接知っているひとしか読まないと思うが、そのうちにボクのことをまったく知らないひとにも見てもらえる機会がでてくるかと思う。せっかくなので、そういったひとたちにも、何かかしらプラスになるものを発信していけたらと思っている。

 

それでは、よろしくお願いしたい。